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今 は 昔          2019/3/30

 戦後70年、生活や社会環境の変化を、井の中の蛙が独断と偏見で辿ります。

【その1】 戦後生まれ

 

  B-29の落とした大量の焼夷弾によって、西宮の町並みや生活は無残に焼き尽くされた。

母の実家で唯一燃え残った鉄製の「風呂釜」が、距離にして約1km離れた阪神電車の久寿川駅から

見えたそうである。

 

 当然、産院や病院等はなく、赤子を産めるような建物もなかったのであろう、

二十歳の母は、飯場を「矢板」で囲った急場造りの部屋での初産であった。

幸い実家が土建屋だったので、土木工事に使う「矢板」は産み場所を囲うに充分あったようだ。

** 風呂は「五右衛門風呂」 **

 

 物心のついた頃は、母の実家敷地内の一角に建てられた別建屋に住んでいたが、風呂は実家の「五右衛門風呂」に入っていた。焼け残った「風呂釜」を再利用したのかどうかはわからないが・・・。

 

 実家の風呂場は4.5畳程度の広さがあっただろうか、敷地の中心に位置して、まるでその風呂場を中心に建物が建てられたかのようであった。

 

 「五右衛門風呂」は直径1.2mくらいの大きな鉄の風呂釜である。 窯の下から薪や廃材を燃やして沸かすので、窯底が熱くなり入浴時に直接足をつけられない。そこで「ゲス板」なる円盤状の厚板を使っていた。

 

 お湯に浸かる時、まずこのゲス板なるものを窯底にはめこむのにちょっとしたコツがいる。

 木製のゲス板は浮力で浮かぼうとするので、うまく水平を保つように両足で体重をかけて窯底まで沈める。そして二か所の切り欠き部分を窯底に取り付けられた二つの突起部分にはめこんでクルツと10°くらい回転させる・・・・と、記述が難しいが、その裸での仕草を今見ることができたら滑稽だろうと思う。

 

 この風呂を沸かすのは大変である。風呂のカマドに紙(多分、新聞紙)を丸めていれ、その上にまず細い木切れを重ね、マッチで紙に着火後、この細い木切れが燃え出すと、さらにその上に薪や矢板等の切れ端を置いて火力を強めていく。

 

 風呂には、はじめに水道の蛇口からの水で満水にし、カマドの火で熱めに沸かしてからあと、人が浸かれる程度のお湯にするのであるが、この労力も大変! 風呂場の傍には打ち抜き井戸があり、手押しポンプを備えている。このポンプを必死に漕いで井戸水を樋つたいに風呂釜に流し入れるのである。

 

 さて、その風呂に一番先に入る“一番風呂”は、常に家長の祖父であった。

 風呂に浸かり始める時、風呂釜からお湯が“ザァー”と溢れ落ち(溢水)なければならかったそうで、明治人間の毎日のチッチャナ道楽でもあったようだ。

 

 風呂が終わった後、明日に向けての後始末も怠ることは出来ない。カマドに溜まった”燃えカス”や”灰”を、金具で掻き出し廃棄しなければならない。当時のこのようなゴミはどう処理していたのだろうか。

 

** 継ぎはぎの家 **

 

 昭和30年頃だろうか、我が一家は母の実家の東側、市営住宅一軒と細い路地を挟んだ資材置き場に建てられた細長い家屋に移った。

 

 一軒家とはいっても、土建請負業の祖父の都合と意向で建てられた代物であったのだろう、南の道路に面して資材置き場の一部が残り、その北側にまず風呂場があった。これまた「五右衛門風呂」である。

 

 その風呂場の北側は土間であり、西向きに裏戸が設けられていた。そのまた北側には縁側とトイレ、そして6畳の和室が続き、そしてまた土間に「板」を敷いただけの炊事場(西側に細い路地に出る勝手口、東に井戸水を使うための出入り口)があった。

 

 そして再び一段上がって「掘りごたつ」付きの3畳の板の間(ここが食事場所兼居間)と2畳の自称、勉強部屋。それに続いて4畳半の和室と東側に玄関土間があった。

 

 要は「風呂場」と「便所付き和室」と「玄関、掘りごたつ部屋付和室」を別々に建て、両和室の間の土間に板を敷いて炊事場としたような継ぎはぎの長屋であった。

** 便所の話 **

 

 当時はまだ下水道が整備されていない時代、水洗トイレは勿論、浄化槽といったものはなく、“汲み取り式”便所である。

 

 男性の”小”の場合は用を足しにくい。よってこの種の便所の外側(東側)に小便器が取り付けられていた。雨の日や夜間はどうしていたのだろうか、全く記憶のないのが不思議!

 

 近隣の農家だと思うが、定期的か依頼した時かに便所の汲み取りに来ていた。

 その頃の近郊には麦や野菜の畑があり、我ら悪ガキどもが「コエタンゴ」と呼んで石を投げ込んだこともある「野壺」があった。農家は作物の肥料として、近くの家から汚物を集めて運び入れ、ここで肥料として発酵・熟成させていたのである。

 

 昭和30年代の後半頃になってだろうか、市はバキュームカーで汲み取りを始めた。「汲み取り券」なるものがあったように記憶する。 

 只、集めた汚物は、木造船に積み替えて「大阪湾」の遠く沖合の海に捨てて処理していたと聞く。時折、今津港で、糞尿らしきものを満載してポンポン船に曳かれて沖合へ惹かれていく数隻連なったハシケを目撃した覚えがある。

** 掘りごたつ **

 当時の掘りごたつの熱源は、「練炭」である。直径10cmくらいの円筒形に石炭の粉を固めたものであり、なかなか火がつきにくい。

 

 練炭をイコス(炭や練炭に火をつけることを“イコス”といった)には、まず、「練炭火鉢」に紙や木切れをいれて火をつけ、その上に「練炭」を乗せる。 

 時々、練炭火箸で練炭を持ち上げて下面を確認し、一様に赤くなっていたら、下面(着火した面)を上にして掘りごたつに入れる。着火した面を下にしていると、不完全燃焼となり非常に臭く、いわゆる一酸化炭素中毒の危険がある。

 

 冬期になると掘りごたつは日課のごとくである、よく中毒にもならず暮らせたものであるが、当時の家屋は薄壁で、戸や窓も隙間だらけ。部屋の密閉度が今と全く異なっていたのが幸いであったのだろう。

  

** ちょっとした子供の遊び **

 

 二つの和室を行き来する際に、一段下の炊事場の板間へ飛び降り、そして次の和室に飛び上がうる。その度に敷板は大きな音を発する。子供は遊びとして喜んでいたし、多分、足腰の骨も丈夫に育っただろう。

 

 また、紙で魚の形を切り抜き、その口にクリップを付けて炊事場の板の間にばらまき、タコ糸の先に小さい磁石をつけた釣り糸で”釣り遊び”をしたものである。すべて自作であった。

  

** 手漕きポンプ **

 

 我が家の東側の”ネコのヒタイ”の庭には、母の実家と同様に打ち抜き井戸があり、手漕きの井戸ポンプがあった。ガス風呂ができるまで、洗面所(トイレではない!)がなかったので、朝はここで顔を洗い、歯を磨くのである。

 

 お陰で「手漕きポンプ」の仕組みや、汲み上げが出来なくなった場合の対処方法等を知った。ただ、冬にはよく氷が張ってポンプがフリーズしてしまう。お湯をぶっ掛けて氷を解かす必要があり、大変厄介である。

 

 多分に冬は寒かった。このような手漕ぎポンプのフリーズは勿論、水道管も凍結することもあり、薄っぺらな窓ガラスの結露は、朝方には雪の結晶を大きく成長させた様な氷模様を描いていた。

 

 

** ガス風呂 **

 

 中学時代か、玄関の土間を床上げして板の間とし、その北隅にトイレを設置。よって南にあったトイレを潰して新しくガス風呂の風呂場を作った。(立派な五右衛門風呂は取り壊し、その分資材置き場が広くなった。)

  

 種火を付けなければならない。外にガスバーナの焚き口があり、狭い焚き口から火をつけたマッチ棒を差し入れ、ガスが“シュー”と出ている細い銅管の先に種火を付けるのである。

 妹はこの細いガス管を焚き口の外へ引っ張り出して着火させたとか・・・・・

 

 朝、風呂場で洗面、歯磨きができるようになり、井戸は夏のスイカを冷やしたり、不用となった台所の流し(石製)に水を張った小さく浅い水槽の給水に使うだけになった。

 

 ** ”池”というか”水槽”というか **

 

 この小さく浅い池では、金魚掬いで貰った「金魚」や、父の川釣り土産の「ハス(オイカワ)」、近くの野池で掬った「フナ」、「メダカ」等々をほりこんだ。 「ゲンゴロウ」や「マツムシ」、魚の天敵の「タガメ」も入れたが、金魚、ハス、メダカともども、よく育ったものである。

 

 魚の餌は、食パンを細かくちぎったもの。それと家屋の西側の排水溝に大量発生していた「糸ミミズ」である。溝壁の崩れたレンガの割れ目から、団子のように群れている細い糸ミミズは、洗濯ばさみで掴んで引っ張ると“ゴソッ”と塊でとれる。

 

 そういえば、この排水溝には、小さい蟹(「さわがに」の種類か?)も発生していて、よく炊事場の板の間に無断侵入してきたものである

 

 大学卒業までこんな住居環境で過ごしたが、親は長男の就職を機会に新居の購入を決断した。

当時(昭和39年)の建売住宅(30坪未満)で500万円未満だった。

我、会社への初出勤は武庫之荘の新居からとなった。

 

   ***  続く  ***

 

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